『歴史は”強者ファースト”か?』

歴史

書誌情報

編者:板垣竜太、加藤圭木、岡本有佳

言語:日本語

出版年:2026年

出版社:岩波書店

選書コメント

本書の個々の論はいずれも一読の価値に富むが、同時にその根底にある事象にも、少し視線を向けてみたい。それは、有史以来長らく「歴史は強者の手に委ねられてきた」ということである。

古来より、少なくとも文字資料として作成される歴史叙述に携わるには、まず読み書きの能力は必須であり、続いて情報(多くの場合が書庫などに保管される文字史料であったろう)にアクセスする権限、筆記にかける時間を捻出する経済力なども必要であった。古代エジプトの書記、中世教会の神父、中国歴代王朝の官僚たちなど、歴史の筆記は識字能力のあるエリートによってなされ、そしてそのほとんどは支配層の統治に親和的に結びついていた。支配・統治を正当化していくために、記録がなされていたのである。

さらに、被支配層の生活圏にある出来事は、たとえインパクトがあっても、書き残す主体の不在から文字資料になりづらかったことであろう。逆に、王権や戦役、税の徴収、外交といった統治に直結する事柄は、記録する必要があるためにこそ体系化され、次世代へと継承された。つまり、歴史記述が常に強者の視点に偏るのは、単に意図があるからだけではなく、そもそも記録の回路そのものが強者に向けて組み上げられているからだとも言える。こうした差は「何が起きたか」より先に、「何が残るか」を決めてしまうのだ。

その結果として、我々のアクセスし得る「歴史」の大部分は、折々の社会の「強者」によって残されているものとなり、社会の中で抑圧され声を挙げられなかった人々は常に黙殺されてきた。

こうした強者の歴史叙述が、その掌中から奪われたのはごく最近のことだ。近代市民社会の成立、識字率の向上、情報の非対称性の段階的な解消、これらによって、いま歴史叙述の強権性は大きく弱体化しているのである。有史以来の人類の歩みの中では、大変に珍しいことと評価してよい。これは先人たちが不断の努力によって勝ち取ってきたものであり、我々の意識がなければ脆くも崩れ去るおそれがあることを今一度認識しなおさねばならない。

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